せくしょん 6 在宅訪問診療、訪問看護、在宅ケアなどを開始
セクション6は「これまでの歩み・・・その②・・・」
西原の時代は、感染症の病原菌がどうした、こうしたというようなこと
よりは、癌(がん)や生活習慣病、介護、認知症などが大きな問題となっ
てきた時代であり、このようなことへの対策を中心として活動した。
このうち介護関係について少し触れてみると、
昭和57(1982)年6月から在宅訪問診療・訪問看護・在宅ケア(介護)を開
始。この頃から、全国の他の地域でも在宅訪問診療を行う医療機関が現
れた。
その後、昭和60年頃から次々と、訪問リハビリテーション、訪問入浴
(および洗髪)介護を開始。サービス担当者会議や居宅療養管理指導など
も始めた。
その頃の活動についてまとめたのが、「ホームドクターと連携した訪問
指導 三豊総合病院における実情」・・・病院:46巻5号(1987,5)
や、「昭和時代の在宅ケアの思い出」・・・ 医療と介護Next:Vol.1
No.1 創刊号(2015,1)である。
『今から30年以上前の1982(昭和57)年、香川県の山奥の診療所で高齢者への訪問診療を始めた。振り返れば、わが国の“在宅”の始まりのときから関わってきたことになる(医療保険の診療報酬制度に在宅訪問診療の概念が導入されるようになったのは、86年のことである)。
世の中にまだ“介護”という言葉がなかった時代から、患者さまの家庭での 介護にも携わってきた。
患者家族からのSOS
自治医科大学(へき地診療所に勤務する総合医を養成する大学)を卒業して、故郷である香川の病院で研修を終え、82年6月、四国山地の山奥の徳島県境近くにある診療所に赴任した。すると、待ってましたと言わんばかりに、関節リウマチのおばあちゃん(当時75歳ぐらい)のご家族からSOSが入った。
「褥瘡が治らないし、手当ての仕方もわからない。週2~3回でいいから定期的に診に来てもらえないだろうか?」
そう言われて、なぜか身も心もゾクゾクッと武者震いしたことを今でも覚えている。
月水金の週3回、このお宅を訪問して治療させていただき、火木土は看護婦(保健婦)に行ってもらうことにした。おばあちゃんは、リウマチで体じゅうの関節が固くなって殆んど動けず、今でいう“要介護4”くらいの状態だった。仙骨部や臀部、腰部などに重い褥瘡があり、痛みも伴っていたように思う。訪問診療と訪問看護を組み合わせて毎日処置に通い、おばあちゃんはほぼ順調に良くなっていった。
医療的な手当てに止まらず、ご家族の希望で身体の清拭や部分浴、入浴、おむつの交換を含む排泄の介助なども、保健婦とともに手伝ったり指導したりした。ご家族に体位交換やポジショニング、清潔、栄養の重要性などについても指導・援助した。今思えば、理学療法士や作業療法士、ホームヘルパーや介護福祉士、栄養士などの役割までも果たしていたことになる。再発、悪化も何度かあったが、そのつど仕切り直し、根気よく訪問した。
在宅ケアのネットワーク
84年からの5年間は、愛媛県境に近い公立病院で、地域のホームドクターと連携した在宅ケアのネットワークを創り上げた。行政(町役場)とも連携し、「サービス担当者会議」や「居宅療養管理指導」のようなことも始めた。「訪問入浴(および洗髪)介護」や、わが国初の「訪問リハビリテーション」をも行った。
賛同し訪問してくれた理学療法士は、「退院後にこんな大変な状態になっているとは思わなかった。“出前”でリハビリを提供することは、とても大切ですね」と、長期間にわたって訪問リハを継続してくれた。
89年から94年初めまでの5年間は、農村部にある小さな老人病院で訪問診療に取り組んだ。なんとしても自宅で世話をしたい、家で看取りたい、とご家族が希望するケースに対して、点滴や褥瘡の処置といった医療的なことのほか、排泄や清潔などの介護を指導したり、お手伝いしたりもした。
「在宅(老人)介護支援センター」を立ち上げ、さまざまな介護・福祉・保健・医療サービスの利用促進をも行った。
進化する訪問診療
昔の在宅訪問診療は、そのほとんどが「介護主体型」在宅医療であったのに対して、近年では「ハイテク型」在宅医療すなわち経管栄養や中心静脈栄養、在宅酸素療法、気管切開・カニューレ挿入、人工呼吸療法、腹膜透析、終末期緩和ケアなどの対象となる患者さまの占める割合が大きくなってきている。
「在宅ケア」は今後も、地域包括ケアシステムの中でますます進化・充実していくものであろうと考えるし、またそうであることを切に願ってやまない。』
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<令和元年8月25日 追記>
最近、在宅医療等についての良書にめぐり合うことができた。アドバンスクリエイト社(東京)により数冊のシリーズのような形で制作されているが、なかでも私が特に参考になると感じているのは『日本の在宅医療の歩み』(日本在宅ケアアライアンス刊)。我が国の在宅医療の歴史を振り返ってみようとするときに、極めて貴重な資料となる。おおげさな言い方をすれば、史実を正確に伝えてくれている。
我が国の在宅医療の先駆的な取り組みをされた医師として私が認識しているのは、公立みつぎ総合病院の山口昇先生と、日本在宅医学会の設立者である佐藤智(あきら) 先生。
山口先生は、1974(昭和49)年に、患者さんのお宅に出向いて生活とリハビリをサポートする「医療の出前」を始められた。今でいう“訪問診療”であると語っておられる。※
ちなみに山口先生は1981(昭和56)年に訪問リハビリを正式に開始された。
私は、昭和60年のことであったと記憶しているが、公立みつぎ総合病院を視察したことがある。山口先生の御挨拶やフリートーク的なお話のなかで「医療の出前」を何年から開始したかというような細かいところまでは触れられなかったように思うが、この『日本の在宅医療の歩み』の中の記載により正確に把握することができた次第である。
佐藤先生は、1981(昭和56)年に、「自分たちの健康は自分たちで守る」「病気は家でなおすものである」を基本理念とした会員制の組織ライフケアシステムを設立し、会員に対して医師の訪問診療と24時間365日体制の相談システムを構築・実践した。これが都市型在宅医療のモデルになったとされる。
現在行われている我が国の「在宅訪問診療」(計画的・予定的な訪問であり、患者の求めに応じて随時訪問する“往診”とは区別される。定期的・継続的な訪問を基本とするが、患者の病状変化等によっては適宜“往診”を織り交ぜながら行う)の原型とも言えるものが、いつ、誰によって最初に始められたかということについて論ずるためは、このお二人の先生方がそれぞれに始められた“訪問診療”なり“在宅医療”の“計画性、予定性、定期性、継続性”などについて検証する必要があろう。
私もさらに調べてみて、当ウェブサイト上で報告していきたい。
<令和元年8月30日 追記>
佐藤先生は、1970(昭和45)年に東村山の東京白十字病院の院長になられたとき、病院を挙げての「寝たきり老人訪問診療」を開始されたとのこと(『ライフケアシステムの歩み No.36「追悼 佐藤智先生」特集号』より)。これについても、具体的な内容、計画性・予定性・定期性・継続性などについて検証してみる必要があるだろう。
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平成6年度から保健所や県庁などでの保健衛生行政の世界に入ったが、べつにそういう方向へ進みたかったというわけでもない。自治医科大学の卒業医師には、へき地診療所あるいは保健所などに勤務することが義務付けられており、私も多和診療所や田野々診療所に勤務したのだが、その後、大学の後輩医師たちが、特に保健所勤務を嫌い、避けるようになったため、「私が行きます。後輩たちがイヤイヤながら保健所へ“行かされる”ことのないように」ということで手を挙げた。
とはいうものの、正直言って、保健所って何をするところなのか・・・殆んど知らなかった。人に聞かれたら、「野良犬を捕まえるとか・・・」と答えるのが精一杯だったように思う・・・
だが、兎にも角にも、県の保健所に雇用され勤務がスタートした(汗)
・・・だんだんと分かってきた、保健所でどんな仕事をするのか・・・衛生行政、防疫、感染症予防・・・等々・・・こういうものが主体となるのか・・・「ええっ、待てよ、野口英世も行政による検疫・防疫等の業務を経て細菌学の道に入ったんだったなあ」・・・気がつけば野口と同じ分野に入ってきていた自分というものにニガ笑いをした次第・・・
保健行政、公衆衛生の経験はとても貴重なものであった。その後再び臨床の現場に戻ってからも、そこで身につけた知識・技術等は大いに役立っている。
“約20年間” 勤めた。(正確にいえば19年間)
だが、兎にも角にも、県の保健所に雇用され勤務がスタートした(汗)
・・・だんだんと分かってきた、保健所でどんな仕事をするのか・・・衛生行政、防疫、感染症予防・・・等々・・・こういうものが主体となるのか・・・「ええっ、待てよ、野口英世も行政による検疫・防疫等の業務を経て細菌学の道に入ったんだったなあ」・・・気がつけば野口と同じ分野に入ってきていた自分というものにニガ笑いをした次第・・・
保健行政、公衆衛生の経験はとても貴重なものであった。その後再び臨床の現場に戻ってからも、そこで身につけた知識・技術等は大いに役立っている。
“約20年間” 勤めた。(正確にいえば19年間)
現在は、介護老人保健施設 ハートフルねんりん荘 施設長
美術館北通り診療所 兼務 在宅訪問診療
介護老人保健施設 ハートフルこくぶんじ荘 兼務
この仕事をずっと続けていけたら幸せです!!!
そして令和元年5月、終活エンディングPEN(「西原修造MUSEUM」)
を作成!
そして令和元年5月、終活エンディングPEN(「西原修造MUSEUM」)
を作成!
★ あくまで個人的な電子ノートとして制作しましたが、
一応の試みとして
(終活エンディングPENのサンプルとしてお示しするため)、
ネットでも見ることのできる形とするものです。 (終活エンディングPENのサンプルとしてお示しするため)、
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ウェブサイト『 西原修造 エンディングPEN 』
(エンディングノート)
URL:https://endingnoteshu.blogspot.com/ ←クリック テーマ:明るく前向きな終活
コンセプト:「こいつアホか」と思って頂けるような内容
“賛否両論”のオンパレード
セクション1~18までの 18本あります けっこう評判 !!
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