せくしょん 16 “ 素顔の野口、ありのままの野口 ”
セクション16は、「新聞・雑誌などの記事・・・その⑤」ではあるが、
“素顔の野口、ありのままの野口”といったような写真が出てくる。
「気さくに立ち話」という写真は、野口の写真のなかでも私が最も好きな写真!・・・野口という人はあんまり気取った人でもなく、むしろテンネンで、ひょうきんな一面も少なからずあった。
子どもの頃、伝記を読んだり、また“道徳”の教科書にも野口英世が出てくる時代であったが、野口の左手は“治っている”ものと思い込んでいた。
・・・・・伝記には普通、きれいに治ったというような書き方がしてあるものだから・・・・・
私が30歳の頃だったと思うが、福島で学会があり猪苗代(いなわしろ)町の野口英世記念館に立ち寄った時、野口の左手が実際にはどうであったかという写真を初めて見た! ・・・涙が止まらなかった・・・
野口清作(英世)は、実は左手の手術を3回も受けている! …のだが・・・
1回め:1884(明治17)年・・・7or8歳のとき、
斉藤幸元医師(地元の医師)による手術を受けた。
・・・・・開指術(指の分離術)
2回め:1892(明治25)年10月・・・15歳のとき、
会津若松の会陽医院 渡部 鼎(わたなべ かなえ)医師による手術を受けた。
・・・・・開指術(指の分離術)
3回め:1897(明治30)年8月20日・・・20歳のとき、
東京帝国大学 近藤次繁(つぐしげ)助教授による手術を受けた。
・・・・・・有茎皮弁移植術
※ 当時の学生教育用の無料患者である「施療患者」として(治療費対策などのため)
小学館文庫「野口英世」(昭和15年7月20日発行)から少し引用させていただく。
『だが、相変わらず悲しいのは、やけどをした左手の事だった。
さすがに高等小学校へ来ると、みんなが気の毒がって、口に出しては「手んぼ、手んぼ」と言ってからかふやうなことは、めったに無くなった。
しかし、その眼はやはり「手んぼ、手んぼ」とさげすんでいるやうな気がしてならない。
その左手を人前に出すと、みんなの眼が一様にそこに集まってくる。
清作は、だから、お弁当でも、いつもおむすびを持参して、決して弁当箱を用いなかった。弁当箱だと左手も使はなければ食事ができないが、おむすびだと、片手でも食べられる。
困ったのは、鉛筆をけづる時だ。大ていは家でけづったのを持って行ったが、どうしても教場でけづらねばならない時は、左のわきの下にかゝへこんでけづった。
さうしてでも、人に左手を見せまいとした。体操(体育)はしなかった。事実、鉄棒や亜鈴(あれい)や球竿(たまざお)は握れなかったのでもある。
又(また)心をうちあけて語れる仲よしの前だけには晴々とその手を出して見せて、
「僕、いっそのこと鉛筆けづりの小刀(こがたな)で、この指の間を一本一本、切りはなしてみようかと思ふことがあるよ。」と言った。
「無茶をしてはいけない。あとで治るかどうかわからないぢゃないか。そんな事は医者にみてもらった上のことだよ。医者でもない者がそんな事をやっては危ない」と、友達はみんな止めた・・・・・』
・・・・・辛かったと思う。その後も長い間、“ハンディ”に苦しみ、辛い思いを引きずり続けたのだろう・・・・・野口英世は、左手のことについては、死ぬまで劣等感に苛(さいな)まれ続けた・・・
野口の直筆色紙「忍耐」は私も大切にしている。
『おわりに』のところでは、“野口に成り代わりまして”、長年にわたり
千円紙幣の肖像を務めさせて頂いたことについてのお礼や、そのことに
ついての“ホンネ”の想いなどを述べさせて頂いた。
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